現地時間

自己紹介させて頂きます。

私はイサームと申します。
正しい呼び方はエッサムですが、1992年に知り合った日本の方が日本の呼び方のイサムを教えてくれました。
そのとき初めて新撰組の近藤勇のことも知りました。
元々は法律の勉強をしてました。カイロ大学法学部を卒業し弁護士の資格も取りました。
私の夢は国際弁護士でした。在学中から日本で国際弁護士になりたかったので日本語を勉強し始めました。
国際弁護士になって仕事をすることが私の大きな夢でしたが、日本とエジプトの壁は厚く実現しませんでした。
23歳のときから観光で来る日本の方にエジプトの遺跡を案内しながら、歴史・文化・伝統・習慣などをお話しています。
テレビ局からの依頼もあり、旅行番組・お笑い番組・料理番組・記録番組などのコーディネーターとしての仕事もしています。
私は、ガイドやテレビコーディネーターの仕事を通して出会ったすべてのお客様に満足して頂き、すばらしい思い出を作ってもらえるように頑張っています。
エジプトについて何かご相談いただければ、いままでの色々な経験をいかしお役に立つことが出来ると思います。

よろしくお願いいたします!
イサーム ガラール

エジプト

エジプト
地図

スフィンクスの足元

スフィンクスの足元
スフィンクス足間に立って写真撮ってもらいました。

ガイディング

ガイディング
お客様がくれた写真

ガイド姿

ガイド姿

御案内させて頂いたお客様

大好きな歌、トモダチ、ケツノポリス2、ケツメシ  


古代エジプト象形文字

古代エジプト象形文字

古代エジプト年表

古代エジプトを支えたのは 神官 ・ 軍人 ・ 官僚ナイル川の流れは穏やかだ。アレクサンドリアとアスワン間は1200キロメートルもあるのに標高差はわずかに100メートルしかない メネスからアレクサンドロス大王の征服までに561人のファラオがいた。

古 代 エ ジ プ ト 王 朝 時 代

先王朝時代~BC3000頃
前6000年紀 ナイル川沿いに住み着いた人々が村落を形成、農耕・牧畜と定住生活始める。          
麦と羊、山羊、豚、牛の共通性で西アジアからの伝播と考えられる。  
これまでに、ノモスが上エジプトに22、下エジプトに20、計42できる。

初期王朝時代1,2王朝BC3000頃~BC2650頃
BC3000頃  メネス(ナルメル)王が上・下エジプトを統一。
首都メンフィス。当時のエジプトの推定人口は200万人。

古王国時代3~6王朝BC2650頃~BC2180頃
BC2650頃  第3王朝初代ジェセル王がサッカラに階段ピラミッドを建設(最初のピラミッド) 〈ジェセル王の宰相イムホテプ=名前が判明している最古の建築家の企画と言われている。〉

第4王朝最初の王スネフェル王(クフ王の父)が父フニ王(第3王朝最後の王)を受け継ぎ、メイドゥムに崩れピラミッドを建設。
BC2610頃 第4王朝始まる(初代はスネフェル王。
この王の時からカルトゥーシュで王名を記すようになる)
BC2600頃 スネフェル王がダハシュールに2基のピラミッドを建設。
北側に赤のピラミッド(傾斜角43度22分)=最初の真正ピラミッド(ヘムオンが設計)、南側に屈折ピラミッド(傾斜角下部分54度28分上部分43度22分)(スネフェル王は少なくても5つのピラミッドを建設。)
BC2550頃 クフ王がギザにピラミッドを建設(最大のピラミッド。傾斜角51度52分)これもヘムオンが設計か。          カフラー王(傾斜角53度8分)、メンカウラー王(傾斜角51度20分)もピラミッド建設(ギザの3大ピラミッド)ギザの3大ピラミッドもヘムオンの設計と考える(吉村作治先生説)3大ピラミッドとスフィンクスで作られる巨大な直角三角形
BC2490頃 第4王朝終わる
BC2340頃 第5王朝最後のウナス王の「ピラミッドテキスト」 。

第1中間期7~11王朝BC2180頃~BC2040頃
政治的内紛。各地に群雄割拠。

中王国時代11~12王朝BC2040頃~BC1785頃
BC2040頃  メンチュヘテプ2世、エジプトを再統一。
首都テーベ(現在のルクソール)
BC1800頃 アメンエムハト3世、ファイユームの開拓行う。

第2中間期13~17王朝BC1785頃~BC1565頃
13王朝のケンジェル王のピラミッドがサッカラにできる(現在確認できる最後のピラミッド)
BC1720頃 アジアの遊牧民ヒクソスがエジフトへ侵入。
BC1680頃 アジアの遊牧民ヒクソスがデルタ地帯のアヴァリスに首都を築く。
エジプト史上初の異民族王朝この頃にエジプトに馬車と戦車(チャリオット)が伝わる。

新王国時代18~20王朝BC1565頃~BC1070頃
BC1565頃 イアフメス王、ヒクソスを追放し、エジプトを再統一。
首都テーベBC1520頃 王家の谷の造営始まる。
BC1500頃 ハトシェプスト女王(エジプト唯一の女王)トトメス3世(ハトシェプスト女王の義理のこども)時代に領土は最大トトメス4世(妃の一人にミタンニの人)
BC1400頃トトメス4世の子=アメンホテプ3世(妃はミタンニの人) 、新王国時代の絶頂期。
アメン神官の力を避け、首都をテーベの東岸から西岸のマルカタに移す。
BC1365頃  アメンホテプ4世(別名アクエンアテン王、妃はネフェルティティ〈父の妃としてミタンニからやってきたが、父の死後アメンホテプ4世の妃となる)=アアメンホテプ3世の子、宗教改革。          首都をテル=エル=アマルナに移す。BC1350頃  ツタンカーメン王(アメンホテプ4世の子であるアンケセナーメンと結婚)、即位BC1279頃 ラムセス2世、即位(~ BC1213正式の妃4人・側室6人・後宮に500人BC1275頃 カデシュの戦いメルエンプタハ(ラムセス2世の第2王妃の子)即位モーゼに率いられてヘブライ人の出エジプトがおこる。

第3中間期21~24王朝BC1070頃~BC750頃
テーベではアメンの大神官が実権を握って上エジプトを支配。下エジプトはリビア系の王が支配。

末期王朝時代25~30王朝BC750頃~BC305頃
BC700頃シャバカ王、エジプトを再統一BC332マケドニアのアレクサンドロス大王がエジプトを征服。
(アレクサンドロス大王の征服からローマ帝国の支配の終末までを  グレコ=ローマン時代 BC332~AD395ともいう〉       ギリシア人・ローマ人によるエジプト支配の時代

プトレマイオス朝時代(ヘレニズム時代)BC305~BC30
BC305マケドニアの貴族プトレマイオスがアレクサンドリアを首都としてプトレマイオス朝をおこす。
プトレマイオス1世はアレクサンドロス大王の遺体をアレクサンドリアに葬る。
ファロスの灯台を建築し始める(プトレマイオス2世が完成)
BC290頃 アレクサンドリアにムセイオン建設。以後、自然科学者が多く輩出。
アルキメデス、エウクレイデスなど
BC283 プトレマイオス2世即位プトレマイオス3世、プトレマイオス朝の全盛時代BC3世紀初め マネト『エジプト史』をプトレマイオス2世に献上。
BC64 プトレマイオス12世即位。いつも酒に酔って笛を吹いていたので「笛吹王」と呼ばれていた。
BC51 クレオパトラ7世(18歳)とプトレマイオス13世(10歳)との共同統治始まる。
BC48 クレオパトラ7世、シリアへ追放される
BC48 カエサル、アレクサンドリアに上陸。クレオパトラ7世との運命的出会い。クレオパトラ7世とプトレマイオス13世との共同統治復活。
BC48~47  アレクサンドリア戦争。カエサル・クレオパトラ連合 対 プトレマイオス13世派の戦い。勝利したカエサル・クレオパトラはローマとエジプトをあわせた世界帝国の夢抱く。
BC44 カエサル、暗殺される。
「ブルータスよ、お前もか」
BC31アクチウムの海戦。オクタヴィアヌスがアントニウス・クレオパトラを破る
BC30 アントニウス自殺。クレオパトラ7世も毒蛇に胸を咬ませて自殺。     

現在エジプト

現在エジプト
モハメッドアリの時代からの支配者

現在エジプト

現在エジプト
1952年からの支配者

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アブ.ミナ修道院

エジプト、アレキサンドリア、アブ・メナ修道院

アブ・メナは、アレキサンドリアの南西(なんせい)45kmに位置(いち)する、古代エジプトにおけるキリスト教巡礼(きょうじゅんれい)の中心的存在だった都市(とし)の遺跡。

1979年にユネスコの世界遺産に登録された。

その遺構(いこう)はほとんど残っていないが、バシリカのような大建築物(だいけんちくぶつ)の土台(ど
だい)は、今でもはっきりと識別(しきべつ)できる。
歴史

アレキサンドリアのメナス (Saint Mina) は3世紀後半もしくは4世紀初頭(しょとう)に殉教(じゅんきょう)した。

その後形成(けいせい)された彼の埋葬譚(まいそうたん)にはいくつかの変種(へんしゅ)があるが、その骨子(こっし)は以下のようなものである。

アレキサンドリアから彼の亡骸(なきがら)がラクダに乗せて運ばれ、Lake Mariout マリオット 湖を越えて(こえて)砂漠を渡ったときに、ラクダが足を止めた。

押せ(おせ)ども引け(ひき)どもラクダはそれ以上歩こうとしなかったので、これは神意(しんに)であると受け止められて、彼の遺体(いたい)はその場に葬られた(ほうむられた)。

物語のほとんどのバージョンでは、彼の墓の位置(いち)は地元の羊飼い(ひつじかい)による奇跡的(きせきてき)な発見まで忘れられていたとする。

それに拠れば(よれば)、羊飼い(ひつじかい)はメナスの墓所(ぼしょ)で羊(ひつじ)の病気(びょうき)が癒える(いえる)ところに居合わせた(いあわせた)のだという。

羊飼い(ひつじかい)が経験(けいけん)した治癒(ちゆ)の力の話は瞬く(まばたく)間に広がった。

エチオピアの聖人略伝集(せいじんりゃくでんしゅう)(Synaxarium) は、コンスタンティヌス1世が病気(びょうき)の娘を羊飼い(ひつじかい)の下に送り(したにおくり)、娘(むすめ)が快癒(かいゆ)した結果(けっか)、この地(ち)でキリスト教に改宗(かいしゅう)したと伝えている。

もちろん、この話は実証(じっしょう)されたものではなく、コンスタンティヌス1世の代わりに5世紀の東ローマ皇帝(こうてい)ゼノンを主役(しゅやく)にした異伝(いでん)もある。もっとも、そちらの説は、考古学者たちの研究(けんきゅう)では、アブ・メナの建築物群(けんちくぶつぐん)の最初のものは4世紀半ばと位置(いち)づけられているので、年代的に齟齬(そご)を来している。

歴史的には、この地は4世紀後半までに、治癒(ちゆ)をはじめとする奇跡(きせき)を求める(もとめる)キリスト教徒(きょうと)たちにとって、重要(じゅうよう)な巡礼地(じゅんれいち)となっていた。

アルカディウスの治世(ちせい)には、地元(じもと)の大司教(だいしきょう)は、小さな教会に大勢(たいせい)の巡礼者たちが押し(おし)寄せて(よせて)くるのを目撃(もくげき)し、東ローマ皇帝(こうてい)に対し、キリスト教の三大拡張期(さんだいかくちょうき)の最初のものが起こっている様子を書き送った。

古代が終わるまでに、アブ・メナはエジプトにおける中心的巡礼地となっていた。

しかし、7世紀半ばに、イスラム教徒たちに征服(せいふく)され、アブ・メナは破壊(はかい)された。
発掘

1905年から1907年に最初の発掘が行われた。
この結果(けっか)、バシリカやおそらく聖遺物(ひじりいぶつ)が納められていた(おさめ)と思われる付
属教会(ふぞくきょうかい)、そして古代ローマ式の浴場跡(よくじょうあと)などが発掘された。

のちにドイツ考古学研究所(こうこがくけんきゅうじょ)(German Archaeological Institute) が行った長期(ちょうき)の発掘作業(さぎょう)も1998年には終了した。

その直近(ちょっきん)の発掘の結果(けっか)、きちんと男性棟(だんせいむね)と女性・子供棟(こどもむね)に分かれている、貧しい(まずしい)巡礼者を収容(しゅうよう)していた寮(りょう)が見つかった。

また、構造上(こうぞうじょう)明らかになったこともあり、バシリカの南で見つかった建造物群(けんぞうぶつぐん)は修道院長(しゅうどういんちょう)の住居(じゅうきょ)と推測(すいそく)されているほか、巡礼者を迎え(むかえ)ていた区画(くかく)は元は墓地(ぼち)だったらしいことなどが推測(すいそく)されている。また、本来の教会の遺跡に付属(ふぞく)している洗礼所(せんれいじょ)は三段階(さんだんかい)に発展したらしいことなども明らかになっている。

さらに、6世紀から7世紀頃の地下貯蔵庫(ちかちょぞうこ)も含む(ふくむ)ワイン醸造(じょうぞう)の設備類(せつびたぐい)も発掘されている。

世界遺産

登録基準(とうろくきじゅん)
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満た(まんた)したと見なされ、登録がなされた。

(4) 人類の歴史上重要(うえじゅうよう)な時代を例証(れいしょう)する建築様式(けんちくようしき)、建築物群(けんちくぶつぐん)、技術(ぎじゅつ)の集積(しゅうせき)または景観(けいかん)の優れた例(すぐれたレイ)。

危機遺産登録 (ききいさんとうろく)

周辺地域(しゅうへんちいき)の農業(のうぎょう)の影響(えいきょう)で、地下水位(ちかすいい)が上昇(じょうしょう)しており、遺跡の大半(たいはん)が崩落(ほうらく)などの危機(きき)に直面(ちょくめん)している。このため、2001年に「危機遺産リスト」(「ききいさんリスト」)に登録された。

イサーム ガラール ESSAM GALAL