現地時間

自己紹介させて頂きます。

私はイサームと申します。
正しい呼び方はエッサムですが、1992年に知り合った日本の方が日本の呼び方のイサムを教えてくれました。
そのとき初めて新撰組の近藤勇のことも知りました。
元々は法律の勉強をしてました。カイロ大学法学部を卒業し弁護士の資格も取りました。
私の夢は国際弁護士でした。在学中から日本で国際弁護士になりたかったので日本語を勉強し始めました。
国際弁護士になって仕事をすることが私の大きな夢でしたが、日本とエジプトの壁は厚く実現しませんでした。
23歳のときから観光で来る日本の方にエジプトの遺跡を案内しながら、歴史・文化・伝統・習慣などをお話しています。
テレビ局からの依頼もあり、旅行番組・お笑い番組・料理番組・記録番組などのコーディネーターとしての仕事もしています。
私は、ガイドやテレビコーディネーターの仕事を通して出会ったすべてのお客様に満足して頂き、すばらしい思い出を作ってもらえるように頑張っています。
エジプトについて何かご相談いただければ、いままでの色々な経験をいかしお役に立つことが出来ると思います。

よろしくお願いいたします!
イサーム ガラール

エジプト

エジプト
地図

スフィンクスの足元

スフィンクスの足元
スフィンクス足間に立って写真撮ってもらいました。

ガイディング

ガイディング
お客様がくれた写真

ガイド姿

ガイド姿

御案内させて頂いたお客様

大好きな歌、トモダチ、ケツノポリス2、ケツメシ  


古代エジプト象形文字

古代エジプト象形文字

古代エジプト年表

古代エジプトを支えたのは 神官 ・ 軍人 ・ 官僚ナイル川の流れは穏やかだ。アレクサンドリアとアスワン間は1200キロメートルもあるのに標高差はわずかに100メートルしかない メネスからアレクサンドロス大王の征服までに561人のファラオがいた。

古 代 エ ジ プ ト 王 朝 時 代

先王朝時代~BC3000頃
前6000年紀 ナイル川沿いに住み着いた人々が村落を形成、農耕・牧畜と定住生活始める。          
麦と羊、山羊、豚、牛の共通性で西アジアからの伝播と考えられる。  
これまでに、ノモスが上エジプトに22、下エジプトに20、計42できる。

初期王朝時代1,2王朝BC3000頃~BC2650頃
BC3000頃  メネス(ナルメル)王が上・下エジプトを統一。
首都メンフィス。当時のエジプトの推定人口は200万人。

古王国時代3~6王朝BC2650頃~BC2180頃
BC2650頃  第3王朝初代ジェセル王がサッカラに階段ピラミッドを建設(最初のピラミッド) 〈ジェセル王の宰相イムホテプ=名前が判明している最古の建築家の企画と言われている。〉

第4王朝最初の王スネフェル王(クフ王の父)が父フニ王(第3王朝最後の王)を受け継ぎ、メイドゥムに崩れピラミッドを建設。
BC2610頃 第4王朝始まる(初代はスネフェル王。
この王の時からカルトゥーシュで王名を記すようになる)
BC2600頃 スネフェル王がダハシュールに2基のピラミッドを建設。
北側に赤のピラミッド(傾斜角43度22分)=最初の真正ピラミッド(ヘムオンが設計)、南側に屈折ピラミッド(傾斜角下部分54度28分上部分43度22分)(スネフェル王は少なくても5つのピラミッドを建設。)
BC2550頃 クフ王がギザにピラミッドを建設(最大のピラミッド。傾斜角51度52分)これもヘムオンが設計か。          カフラー王(傾斜角53度8分)、メンカウラー王(傾斜角51度20分)もピラミッド建設(ギザの3大ピラミッド)ギザの3大ピラミッドもヘムオンの設計と考える(吉村作治先生説)3大ピラミッドとスフィンクスで作られる巨大な直角三角形
BC2490頃 第4王朝終わる
BC2340頃 第5王朝最後のウナス王の「ピラミッドテキスト」 。

第1中間期7~11王朝BC2180頃~BC2040頃
政治的内紛。各地に群雄割拠。

中王国時代11~12王朝BC2040頃~BC1785頃
BC2040頃  メンチュヘテプ2世、エジプトを再統一。
首都テーベ(現在のルクソール)
BC1800頃 アメンエムハト3世、ファイユームの開拓行う。

第2中間期13~17王朝BC1785頃~BC1565頃
13王朝のケンジェル王のピラミッドがサッカラにできる(現在確認できる最後のピラミッド)
BC1720頃 アジアの遊牧民ヒクソスがエジフトへ侵入。
BC1680頃 アジアの遊牧民ヒクソスがデルタ地帯のアヴァリスに首都を築く。
エジプト史上初の異民族王朝この頃にエジプトに馬車と戦車(チャリオット)が伝わる。

新王国時代18~20王朝BC1565頃~BC1070頃
BC1565頃 イアフメス王、ヒクソスを追放し、エジプトを再統一。
首都テーベBC1520頃 王家の谷の造営始まる。
BC1500頃 ハトシェプスト女王(エジプト唯一の女王)トトメス3世(ハトシェプスト女王の義理のこども)時代に領土は最大トトメス4世(妃の一人にミタンニの人)
BC1400頃トトメス4世の子=アメンホテプ3世(妃はミタンニの人) 、新王国時代の絶頂期。
アメン神官の力を避け、首都をテーベの東岸から西岸のマルカタに移す。
BC1365頃  アメンホテプ4世(別名アクエンアテン王、妃はネフェルティティ〈父の妃としてミタンニからやってきたが、父の死後アメンホテプ4世の妃となる)=アアメンホテプ3世の子、宗教改革。          首都をテル=エル=アマルナに移す。BC1350頃  ツタンカーメン王(アメンホテプ4世の子であるアンケセナーメンと結婚)、即位BC1279頃 ラムセス2世、即位(~ BC1213正式の妃4人・側室6人・後宮に500人BC1275頃 カデシュの戦いメルエンプタハ(ラムセス2世の第2王妃の子)即位モーゼに率いられてヘブライ人の出エジプトがおこる。

第3中間期21~24王朝BC1070頃~BC750頃
テーベではアメンの大神官が実権を握って上エジプトを支配。下エジプトはリビア系の王が支配。

末期王朝時代25~30王朝BC750頃~BC305頃
BC700頃シャバカ王、エジプトを再統一BC332マケドニアのアレクサンドロス大王がエジプトを征服。
(アレクサンドロス大王の征服からローマ帝国の支配の終末までを  グレコ=ローマン時代 BC332~AD395ともいう〉       ギリシア人・ローマ人によるエジプト支配の時代

プトレマイオス朝時代(ヘレニズム時代)BC305~BC30
BC305マケドニアの貴族プトレマイオスがアレクサンドリアを首都としてプトレマイオス朝をおこす。
プトレマイオス1世はアレクサンドロス大王の遺体をアレクサンドリアに葬る。
ファロスの灯台を建築し始める(プトレマイオス2世が完成)
BC290頃 アレクサンドリアにムセイオン建設。以後、自然科学者が多く輩出。
アルキメデス、エウクレイデスなど
BC283 プトレマイオス2世即位プトレマイオス3世、プトレマイオス朝の全盛時代BC3世紀初め マネト『エジプト史』をプトレマイオス2世に献上。
BC64 プトレマイオス12世即位。いつも酒に酔って笛を吹いていたので「笛吹王」と呼ばれていた。
BC51 クレオパトラ7世(18歳)とプトレマイオス13世(10歳)との共同統治始まる。
BC48 クレオパトラ7世、シリアへ追放される
BC48 カエサル、アレクサンドリアに上陸。クレオパトラ7世との運命的出会い。クレオパトラ7世とプトレマイオス13世との共同統治復活。
BC48~47  アレクサンドリア戦争。カエサル・クレオパトラ連合 対 プトレマイオス13世派の戦い。勝利したカエサル・クレオパトラはローマとエジプトをあわせた世界帝国の夢抱く。
BC44 カエサル、暗殺される。
「ブルータスよ、お前もか」
BC31アクチウムの海戦。オクタヴィアヌスがアントニウス・クレオパトラを破る
BC30 アントニウス自殺。クレオパトラ7世も毒蛇に胸を咬ませて自殺。     

現在エジプト

現在エジプト
モハメッドアリの時代からの支配者

現在エジプト

現在エジプト
1952年からの支配者

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王家の谷の墓

王家の谷お墓:
KV10:アーメンメッセィ王様のお墓(新王国の19王朝の最初の王様でした。 お墓が発掘で閉まっています。その後に時代に作られたお墓の工事中で盗まれまして、後ず っとそのまま開いていたので、中には何もありませんでした。
KV11:ラムセス3世王様(ラムセス2世王様の息子でした)。新王国の18王朝時代)。 お墓が修復で閉まっています。
KV46:ユヤと奥様のトヤのお墓です。新王国の18王朝のアーメンホテブ3世王様の奥様のタイェ女王様の両親でした。
お墓が修復で閉まっています。
中にあったものほとんどカイロ考古学博物館にユヤとトヤの3番目のコフィンが展示されています。
KV54:ツタンカーメンの埋葬品の貴重品を保護するために作られたらしい。
中にあったものは全部アメリカのニューヨークのメトロポリタン博物館に展示されています。
中のものの一部の写真を添付しました。ご覧下さい。
KV55:タイエ女王様のお墓でしたが、後にご主人のセメンカーラー王様と息子のイクナトン王様も埋葬されました。(18王朝時代) お墓が修復で閉まっています。
お墓の中にあったミイラは男性の王様のミイラですが、名前が消されていました。まだイクナトンのミイラだったかどうかはっき り確定されていません。
KV63:誰のお墓だったか、はっきり確定できていません。
お墓が発掘で閉まっています。
中にあった物は7つの木製のコフィン、大きな保存つぼ、コフィンの中にあったのはミイラをするために使った道具と原料で,つぼの中にミイラの内臓が塩と亜麻布で保護されていました。
割れたつぼもたくさんありました。

アマルナの話

アマルナは昔アケトアーテンと呼ばれていまして、新王国の18王朝のアケンアーテン王様時代の首都でした。

アマルナの遺跡は古代エジプトの新王国の18王朝時代のもので、この地域の遺跡はほとんどアケンアーテン王様(有名な名前はイクナトン王様)の神殿、お墓と家族と高官のお墓の石灰岩のコレクションです。

アマルナ遺跡は次の5つのグループに分けられています:
· 北のお墓地域。
· 南のお墓地域。
· 南の神殿。
· 境界石碑。
· 労働者の町

*他にも石灰岩で出来ているお墓がアマルナの北の砂漠のおくに王族のために 作られたお墓なんで すが、王族には使われていませんでした。
· 北のお墓地域には6つの高官の岩の墓があって、全部開いておりますが、
順番で行くと:
Tomb of Huya (#1),
a Steward to Queen Tiy and Superintendent of the Royal Harem
Tomb of Mery-re II (#2)
Tomb of Ahmose (#3)
Tomb of Mery-re I (#4)Father of Mery-Re II, considered one of the better tombs
Tomb of Pentu (#5)
and Penhesy (#6)
① 番と②番の墓は砂漠のおくの遠いところにあるので、電気が付いていないので、中の壁画がかなり崩れていてバッテリを持っても見にくくなると思います。

③,④,⑤と⑥番のお墓は北のお墓地域のエーリャにあるので、電気が付いていて、全部見れますが、一番壁画がきれいで、大切なのは④番と⑥番のお墓です。壁画があまり崩れていなくて、きれいに残っています。

④番のお墓はメリラー1世のお墓で、メリラー1世はイクナトン王様の内輪を運んでいた高官でした。お墓の壁画がイクナトン王様とご家族がアーテン神にささげ物をささげるシーンとイクナトン王様の娘たちが戦車に乗っているシーンもあります。

⑥番のお墓がベンへセィ(アーテン神の最高神官さんと裁判所長でした)
お墓の壁画でイクナトンの伝記が描かれて書いてあります。

· 南のお墓地域には⑦番から25番までのお墓があって、⑦と25版のお墓だけがみれます。⑦番のお墓がマフー(警察長官でした)と25番のお墓がアイのお墓で、ネフェルティティ女王様のお父様でした。

お墓の壁画でイクナトン王様のための宗教的な国歌が書いてあります。
そして王様の完全的なきれいな大きな絵があって、王様と女王様がヌビャ人にプレゼントを渡しながら、アイと奥様の姿が後ろに描かれているシーンがきれいに残っています。
お墓の中にははすの花の模様の柱が12本もあり、埋葬井戸もあります。
26番のお墓がイクナトン王様の娘たちのお墓なんですが、中の壁画がかなり崩れていて、きれいではありません。
· 南の神殿の地域にはアケンアーテン王様の宮廷や高官岩の墓もありましたが、現在では残っているのは壁の跡しかありません。
· 境界石碑はイクナトン王様が自分の首都の国境を考えて、U型の形をしている国境を作りました。

その境界石碑は王様の像がU型の形の壁に並べています。
* 繁栄の痕跡、混乱の痕跡、ツタンカーメンの関わりが分かる場所はありません。
イクナトン王様が死んだ後、テーベ(ルクソール)のアーメン神の神官たちがアマルナを攻撃して、イクナトン王様の新しい町のきれいな建物を復習のわけで壊してしまって、宗教革命をして、イクナトン王様が作って信じていたアーテン神一神教をなくして、アーメン神の多神教に戻しました。墓の壁に残っている壁画がほとんどイクナトン王様と家族がアーテン神に捧げ物を捧げたり、崇拝したり、家族が集まっているシーンだけなんです。

イサラームの五柱

イサラームの五柱

イサラームではアッラーの意を遂行すると意識して行われる行動は、すべてアッラーへの崇拝とみなされます。ですけれでもイサラームの柱と呼ばれる特別な行為は、人生の的な枠組を提供するものです。

それらは次の通りです。

1-信仰の宣言。
私は、全能のアッラー以上に崇拝する対像を認めず、ムハンマドはアッラーのしもべで便者であることを証言します。ムスレムはムハンマド(彼の上にアッラーの祝福あれ)の模範的一生にならう様、義務づけられています。

2-信者は、一日五回礼拝することを義務づけられています。これらの祈りは信仰を強め、活気を伝え、崇高な道儀を鼓舞します。それらはまた、心身を悪への欲望をコントロールするものです。
全能のアッラーは私たちの祈りを心要とはしませんが。私たちはアッラーの恵みと導きなしで生き続けることはできません。
『なんじら信仰する者よ、忍耐と礼拝によて助けを求めよ。まことにアッラーは耐え忍ぶ者と共にいましたもう。』(二=一五三)

3-毎年一回、断食月〔ラマダン〕の間に断食が行われます。これは、食物、飲料、そして情交を夜明けから日の入り迄慎むことを意味します。また,邪悪な意志や欲望も槙みます。断食は愛や誠実そして献身を教えます。それは、健全な社会的道義心、忍耐力、利他的な心そして意志力を育てます。私たちが自主的に断食を行うならば、アッラーは私たちの苦しみを認められるでしょう。
信仰する者よ、あなたがた以前の者に定められたようにあなたがたに斎戒が定められた。あなたがたは主を畏れるであろう。(二=一八三)

4-ザカート〔喜捨〕は、毎年個人(または団体等)の純益(貯蓄)の二.五%を困窮や貧乏のために使用されるべく、「清め」として支払うものです。ザカート(喜捨)は人間の所有物は本来アッラーのものであり。必要とする人が分け前の権利を有する。と言うを含んでいます。

5-マッカへの巡礼の旅「ハッジ」は、その能力を有する者に対して、一生に一度は遂行されるべく規定されています。ハッジは、人の全ての世規俗的活動の一時停止と、自身をアッラーの前にはだかの魂として差し出す意味を含んでいます。

إكتشاف البحيرة المقدسة بتانيس

タニースでの聖なる池は発見
إكتشاف البحيرة المقدسة بتانيس

كشفت البعثة المصرية الفرنسية العاملة بمنطقة صان الحجر بمدينة تانيس بالشرقية عن موقع البحيرة المقدسة الخاصة بمعبد الإلهة موت
صرح بذلك فاروق حسنى وزير الثقافة وأضاف أن مبنى البحيرة المقدسة شيد بالكتل الجيرية الضخمة والمعاد استخدامها من عده مبانى أخرى نقش عليها باللغة المصرية القديمة ومناظر مختلفة توضح وتؤرخ الفترات التى بنيت فيها هذه المبانى بالمنطقة منذ عصر الأسرتين 22,21 وحتى عصر الأسرة 26.
21,22王朝時代から26王朝時代までに作った
وأوضح د/زاهى حواس أمين عام المجلس الأعلى للآثار أن هذه البحيرة هى البحيرة الثانية التى يتم اكتشافها فى تانيس حيث عثر على البحيرة الأولى عام 1928 وكانت لمعبد آمون .
واستطرد د/حواس أن بحيرة معبد موت تتميز بحالة جيده من الحفظ ودقة البناء طبقا للعقيدة المصرية القديمة وتعتبر الإلهة موت هى زوجة الإله أمون وشيد هذا المعبد لها فى تانيس لعبادتها وخونسو الطفل .
タニースでの聖なる池はムート女神神殿に告げられた池です
وقال د/محمد عبد المقصود رئيس الإدارة المركزية للوجه البحرى أن مبنى البحيرة المقدسة لمعبد الإلهة موت تم اكتشافه على عمق 12مترتحت سطح التل الأثرى و الذى يبلغ ارتفاعه حوالى 30مترآ فى بعض الأجزاء أما ممر البحيرة يبلغ مساحتة 15مترآ وعرضه 12متر وارتفاع الجدران 5أمتار وسمك الجدران 170سم .
واكد د/ عبد المقصود انه لأهمية هذا الكشف يقوم المجلس الأعلى للآثار الآن بأعمال التطوير حول منطقة المعبد لإعداده كمزار سياحى ضمن المنطقة الأثرية وتهيئة المسارات اللازمة للزيارة.

アンク

アンク
アンクは次のように定義される: 物理的な、永遠の生命の象徴で。
それは古代エジプトでアフリカ人によって最初に作成れた強力な記号である元の十字として知られている。
アンクはエジプト古代名ケメット (黒の土地) の言語の平均寿命にギリシャ人によって一般に名前を変更されたエジプトを知られている。
それはまた与える力のための記号であり、生命を支えるために、アンクは (生命を再生すると信じられた)のような物質的な事と普通水、空気、頻繁にアンクを運ぶことを描かれる神エジプト人によってが付いていると同様、太陽、関連付けられる。
エジプトの王は頻繁にアンクは(彼の人々に生命を提供する)また関連付けられたりまたは神によってアンクを(またはアンクの流れ)を所有してアンクと、与えられる。
これはソノセルト王の映像で見る2つアンクを保持しているかだれがの下の彼の箱にことができる。 あった多数の例がある金属、粘土および木から作られた。
通常生命範囲へのお守りとして生存の身に着けられ、ミイラに復活させた精神を活気づけることを置く。

ただの人間とそれらを区別するためにアンクを運んでいる神および王は示されている頻繁に。アンクは永遠の生命を象徴し、それを所有していただれでもの不滅を贈与した。
アンクから出る生命エネルギーがある特定の近さの内のだれでもによって吸収することができると考えられている。
アンクは宇宙に浸透する生命の神力のためのアンテナか水路として役立つ。 お守りは腐食および退化の邪悪な力からの保護を携帯者に与える強力な護符である。アンクのループは神によって握られる。
それは早い 王朝時代期間のイシス女神そしてオシリス神と関連付けられる。 アンクのループはまた細長いセクションは男性的な訓練をまたは表すが、女らしい訓練をまたは(子宮)表す(陰茎)。
これら二つの神聖な単位はそれから一緒に来、生命を形作る。
強力な懇願のために、アンクは皇族を含む様々な宗教および文化的な儀式で使用された。ツタアンクアメンの宝物では、アンクは墓で見つけられた主要な人工物だった。
円は永遠の生命を象徴し、それの下の十字は物質的な平面を表す。アンクはエジプトの起源「難解な点アンサタと」、それ、様々のアートワークで頻繁に現われる早い王朝期間に辿ることができると呼ばれる通常神によって死んだ王の鼻に死後の世界で与えられる生命の呼吸を表すことを保持する。
アンクはまたキーに類似し、死の後の永遠の生命へのキーとして考慮される。
その影響はあらゆる時代期間に感じられ、コプト教西暦紀元中の魔力を所有しているアイコンとして存続する。
各神が所有していたアンクにその神と関連付けられた力があった。
アヌビス神のアンクは(右に映像で示されている)死者の保護、セキメット女神の戦争、ナイルの生きている水と関連しているハッピ神のそれとアーメン、精神の神、生きている水と関連しているハッピのそれとアーメン、精神の神、生命の呼吸関連し。

イサーム ガラール

アブシンベル神殿に太陽が照らしています。

早朝にカイロ出て、アブシンベルに日の出見ることが可能です。

アブシンベル神殿外側のお土産屋


カイロからやく1000キロ南にあるアブシンベル大、小神殿。


アブシンべル大神殿移築された時
モットの場所から高いところに組み立てました。





紀元前1250年頃、古代エジプト第19王朝のファラオ・ラムセスII世が造った神殿。

神殿は高さ33m、幅33m。 青年期から壮年期まで4体のラムセス2世が入り口を飾る。

(左から2番目の像は地震で崩れている。崩れた頭や体はそのまま足下に。)

内部にはヒッタイトとのカディシュの戦い(紀元前1275年)などのレリーフが刻まれている。

一番奥に至聖所があり、3人の神に囲まれたラムセスII世像がある。

これらの神々は年に2回2月20日頃と10月20日頃に神殿入口から入る朝日に照らされるが、元々はラムセスII世と第1王妃ネフェルタリの誕生日に朝日が差し込むように設計されていた模様。

神殿を含むこの辺り一帯の遺跡をヌビア遺跡というが、1960年代にアスワン・ハイダムの造成によりヌビア遺跡はダムの底に沈むところだった。

ユネスコが国際的な救済活動を開始、アブシンベル神殿は60m離れた上方の丘へ移築される。
(至福所に朝日が差し込む時期がずれてるのはこの移築の為。)
このヌビア遺跡の移築をきっかけに世界遺産という制度が生まれる。

アブシンベル小神殿(ハトホル神殿)

ナイル川上流上陸地点→アスワン南部
ラムセス2世が王妃ネフェルタリのために建てた神殿。大神殿の横にある。
美と愛の女神ハトホル女神に捧げられた神殿のため、ハトホル神殿とも呼ばれる。
入り口を中心に2体のネフェルタリ像と4体のラムセス2世像が交互に立っており、壁には"この神殿を王妃ネフェルタリとハトホル女神に捧げる"と刻まれているそうな。
この神殿もアスワンハイダムの建築に伴い、移築される。
ラムセス2世古代はエジプト王の中で、ラムセス大王と呼ばれているときもあります。戦争、平和、建設で有名な王様でした。

世界一始めて和平条約を作ったことで有名な王です。

時代は紀元前1314頃 から紀元前1224年まで、または紀元前1302頃から - 紀元前1212年まで)その時代は、古代エジプトの第19王朝のファラオです。

その治世において、エジプトはリビア・ヌビア・パレスチナに勢力を伸張し、繁栄した。

ラムセス2世年代には、24歳で即位し、67年間統治し、91歳で没したとされる。その間、第1王妃ネフェルタリのほか、何人もいて(13人か、33人か、100人)の王妃、や160人側室もいたと言われ、賢者として名高いカエムワセト、後継者となるメルエンプタハ。

治世の前半期はヒッタイトで勢力を争った。

紀元前1286年、カデシュの戦いに自ら親征し、ヒッタイト王ムワタリと戦った。

エジプトはカデシュの戦いでは偽情報に踊らされた結果有力な軍団を壊滅させられるなど苦戦しつつも、ラムセス2世の武勇によって勝利を収めたが、ヒッタイト勢力をパレスチナから駆逐するには到らなかった。

両者ともに相手を退けるに到らず、長年戦争を続けたのち、ラムセス2世の第21年(紀元前1269年)、エジプトとヒッタイトは平和条約を結んで休戦し、ラムセス2世はヒッタイト王女を王妃に迎えた。

これは世界史で最初の平和条約と呼ばれる。またカデシュの戦いにおけるラムセス2世の勝利の喧伝は、エジプト軍の軍制改革の妨げとなり後に災いを残すことになる。
ラムセス2世はまた、ナイル第1滝を越えてヌビアに遠征した。ラムセス2世は戦勝の記念碑を多く築き、現在もっとも記念碑の多く残るファラオとなっている。ヌビアは後にエジプトに同化され、本家エジプトの衰退を救う形で王朝を立てることになる。
カイサリアのエウセビウスなどキリスト教教会史家の間には、ラムセス2世を『出エジプト記』に登場するユダヤ人を奴隷から解放するようにモーゼ預言者が要求したファラオと同一視する者がある(次代のファラオのメルエンプタハとする説もある)。

ラムセス2世はアブ・シンベル神殿を造営した。これはアスワン・ハイ・ダムの建設に伴って移転され、これを機に世界遺産の制度が制定された。現在アブ・シンベル神殿は世界遺産に登録されている。

他にも「カルナック神殿」や「ラムセス2世葬祭殿(ラムセウム)」等多数の建造物を残している。
ラムセス2世のミイラは1881年に発見され、現在はカイロのエジプト考古学博物館に収められている。身長は183cmもあり、当時はおろか現代に於いてもかなりの長身であることがわかる(古代エジプトの成人男性の平均身長は160~165cmであった)。

また、調査によって生前関節炎を患っていたものの、死亡推定年齢が88~92歳とかなりの長命であったことも突き止められている(古代エジプト人の平均寿命は35~40歳であった)。

生前のラムセス2世の健康状態が高齢に達してなお、極めて優れていたかも理解できる。

また、ミイラに残っている頭髪から髪の色は赤茶であると推定されている。

飛行機からのアブシンベル神殿。



エジプト人日本語ガイド。

初期王朝時代、ナルメル王の粘土板のパレット。


ナルメル王の粘土板のパレット。
A面

5200年ほど前の作品です。一番上の部分に王の名前があって、そのそばに二つのハトホルの頭があります。上エジプトの長く白い王冠を被っている王の姿がパレットの部中央部をしめています。王は右手に高く棍棒を持ち、左がわ にいる捕虜を打ち据えようとしています。これは象徴的な雄牛姿勢で、エジプト芸術に、絶えず、現われ、ローマ時代まで続きました。ファラオの服装をしたローマの皇帝でさえ、同じように敵をうつ姿をしています。


B面


エジプトを統一した南出身ナルメル王のしょうりがここで語られています。一番上には、二つのハトホルの頭にはさまれているのはナルメルの名前です。その下に王自身がいます。ここで彼は下エジプトの赤い王冠をかぶっています。彼の後ろにはしきたりどおりに、ずっと小さく、王のサンダルを持っている者が歩いています。彼の名前には4つの川のはたがあります。これらは敵に対するしょうりを表しています。その敵は首を切られて、その頭が彼らの足の間に見えています。パレットの中央をしめているのは、二匹の絡みあっている蛇、ヒョウで、がわ の紐でつながれています。首と首との間があいていて、そこには緑のスミのようなけしょうひんが塗られています。このヘビーヒョウと言った動物は、メソポタミア 芸術 がナイルけいこくに早くからえいきょうを与えたことを示しています。パレットのそこの部分には、王が雄牛として示されています。敵の部分のかべをうちこわしています。ファラオの王室の称号の一つに「ホラスは強い雄牛。北と南の神9」というのがあります。


イサーム ガラール日本語ガイド。

古代エジプト歴史を復活した石

ロゼッタ ストーン

ロゼッタは場所名で地中海にある大きな町で、ストーンハ石のことです。

ロゼッタ・ストーンは1799年7月15日、ナポレオン・ボナパルトがエジプト遠征を行った際、フランス軍のピエール=フランソワ・ブシャール大尉によってエジプトの港湾都市ロゼッタで発見された。1801年、イギリス軍がエジプトに上陸してフランス軍を降伏させ、それ以降イギリスの手に渡った。
ロゼッタ・ストーンは縦114.4cm、横72.3cm、厚さ27.9cm、重量760kg。当初、花崗岩または玄武岩と考えられたが、実際には暗色の花崗閃緑岩からできている。

岩には文字が刻まれており、エジプト語とギリシャ語(コイネー)の2種類の言語で書かれており、3種類の文字で記されていた。

エジプト語の神聖文字(ヒエログリフ)と民衆文字(デモティック)、そしてギリシャ文字である。

ギリシャ語部分は読むことが出来た。残りの言語の部分も、恐らくギリシャ語と同じことが書かれていると推測された。


ロゼッタ ストーンは、1822年、ジャン=フランソワ・シャンポリオンによって解読され、この結果を手かりに、エジプト語の文書も続々と解読されるきっかけとなった。

ロゼッタ・ストーンは1802年以降、イギリスのロンドンにある大英博物館で展示されている。

1972年10月にはシャンポリオンによる解読150周年を記念して、フランスのルーブル美術館で1ヶ月間展示された。

            碑文の内容ヘレニズム期のエジプト・プトレマイオス王朝のプトレマイオス5世エピファネス施政下の紀元前196年に開かれたメンフィスの宗教会議の布告を書き写したものである。

同一の内容が、エジプト語は神聖文字(ヒエログリフ)と民衆文字(デモティック)、ギリシア語はギリシア文字で刻まれている。

ギリシャ語部分はこのように書き出されている。: Basileuontos tou neou kai paralabontos tén basileian para tou patros... (新しい王は、王の父から王位を継承した....)

その内容は、プトレマイオス5世を称え、プトレマイオス5世などに対する皇帝礼拝の実施方法を記したものである。
Essam Galalーイサーム ガラール エジプト人で、日本語ガイド.